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文豪「島崎藤村」のふるさと馬籠宿は、木曽11宿の最南端、美濃との国境にあり、
山の斜面に沿った全長600m余りの「坂に開けた宿場」です。

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木曽義仲の妹、菊姫にまつわる話
木曽義仲菊姫の墓 五輪の塔
尼寺を建立
冶承4年〈1180)に平家追討の兵を挙げ朝日将軍とまでいわれた木曽義仲は僅か4年にして元暦元年1月、粟津原で悲惨な最期を遂げた。義仲に宮菊という1歳違いの異母妹がいた。鎌倉幕府の日記ともいうべき「吾妻鏡」4、文治元年(1185)の条によれば、頼朝の妻の政子は宮菊を「やしない子(養女)」にして慈しんでいた。都に居た菊姫は将軍の息女ということで威光があったため、周囲にいたよからぬ者たちが、菊姫の名前を騙って役に立たぬ古文書をあげたり、不知行の荘園を寄付したり、また菊の使いだといって官位が高く権勢のある家柄の荘園の年貢を横取りしたりした。これらのことが鎌倉の頼朝の耳に入り、頼朝は菊姫を捕らえて鎌倉に連れてくるように命じた。
 鎌倉に捕らえられた菊姫は、横領のことや悪事の数々は、悪巧みをした人々が自分の名前を騙ってしたことで自分は一切知らないと弁明した。政子のとりなしもあって頼朝は、兄義仲は朝敵として討ったが菊姫に罪はないとして、その境遇に同情し『美濃国遠山の荘の一村』を与え、義仲恩顧の御家人である小諸太郎光兼らに命じて菊姫の面倒をみさせた。遠山の荘の一村とは馬籠のことだという説が定着している。
墨事大般若軽
永昌寺に墨書きの大般若経二冊が伝えられている。いつどこからきたものか不明だが、その経文の奥書には「建保三年五月一二日校始之…」とあり、さらに別書きで「美濃州遠山庄馬籠村法明寺常住」と記されている。建保三年(一二一五)は鎌倉初期のころで、この二つが書かれた時代が同じ時期なら、馬籠の地名がすでにこのころから使われていたことを立証するものであり、菊姫の手によって書かれたものではという推論もある。
阿弥陀如来座像
永昌寺の本堂横の観音堂には一体の木造の阿弥陀如来像が安置してある。桧の一木造りで平安末期の作である。
 この像は本来永昌寺のものではなかった。土地の古老の話によれば、永昌寺から少し離れた原野の中の小堂に祀られていたが、いつ、だれの手によって祀られたものか知る人も無く守る人も無いまま荒れ果てていた。あまりの痛ましさに見かねた村人たちが、明治の初め頃永昌寺に運んだという。然し永昌寺でも素性の判らぬ仏様ということで放置していたところ、昭和三○年頃彫刻家の石井鶴三氏がこの仏像のあまりにも見事なことに驚嘆し、寺に保存を進言した。そこで村人は昭和四五年になって堂宇を寄進してここに安置するようになった。
 鎌倉末期の作であること、そしてその作風の見事なことから、いずれ都の仏師によって作られた仏像であろうと推定され、菊姫が鎌倉から運んで釆たものではなかろうかなどとも言われている。さきの大般若経とともに現在山口村(現中津川市)の文化財に指定されている。
 なおこの阿弥陀堂には阿弥陀仏に並んで円空の作になる「聖観音立像」一体が祀られており、これも山口村(現中津川市)の文化財に指定されている

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