
文豪「島崎藤村」のふるさと馬籠宿は、木曽11宿の最南端、美濃との国境にあり、
山の斜面に沿った全長600m余りの「坂に開けた宿場」です。
| 馬籠の路傍に残る文学碑 |
| 馬籠を抜ける一筋の道は中山道。大名が通り幾多の旅人を迎えたのは江戸の昔。その街道筋には歴史を語る文学碑が随所に建っている。 馬籠峠の正岡子規の句碑 妻籠から馬籠に向かって峠を上り切ったところの茶屋の脇に”白雲や青葉若葉の三十里 子規”の句碑がある。句の出典は子規の紀行文「かけはしの記」で、句の傍らには馬籠と妻籠までの道程が併記されている。 |
| 馬籠峠の道しるべの碑 |
| 所在地 馬籠峠 中山道の路傍 昭和31年、南木曽町の有志によって建立された。 碑にある子規の俳句は「かけはしの記」から採られており、この句の前に次の文が書かれている。 ・・・・・馬籠峠の麓に来る。馬を尋ねれども居らず。詮方なければ草鞋はき直して下り来る人に里数を聞きながら 上りつめたり。此山を越ゆれば木曽30里の峡中を出づるとなん聞くにしばし越し方のみ見返りてなつかしき心地す。 白雲や青葉若葉の三十里 |
| 十返舎一九、の狂歌碑 |
| 峠の集落を抜けたあたりの路傍に江戸時代の滑稽本の作者・十返舎一九の狂歌「渋皮の剥(む)けし女は見えねども 栗のこはめしここの名物」 十返舎一九の碑が目に入る。ここは古くから栗こわめしを名物にしていた所で、文化8年(1811)に十返舎一九は中仙道を旅して「木曽街道膝栗毛」を書いた。 十返舎一九(1765−1831)は駿府の生まれ。小田切土佐守に仕えたが、武士を辞めてからは文筆の道に入り享和2年(1802)に滑稽本《東海道膝栗毛》を出すに及んで文壇的な地位を確立した。執筆の材料集めに各地を旅行したが、狂歌が巧みで、書や絵にも詳しかった。晩年は酒のため手足の自由を失い、生活も苦しく神田紺屋町の自宅で67才の生涯を閉じた。 |
| 山口誓子の句碑 |
| 馬寵のほば中央にある馬籠脇本陣史料館の前に、山口誓子の“荷道の坂に熟柿灯を点す 誓子”の句碑がある。誓子は生前馬籠をこよなく愛し、しばしば奥さんの波津女さんと共に馬籠を来訪し多くの作品を発表した。 この碑は、昭和57年12月、明治書院から発刊の「山口誓子全集」の完結を記念して流域俳句会によって建立されたもので、文字は山口誓子自身の筆になるもの。 |
| 島崎藤村の『太陽のことば』の稗 |
| 藤村記念館第二文庫の正面左横に高さ106センチ、幅87センチの自然石にはめ込まれた銅版に陰刻で「誰でもが太陽であり得る。わたしたちの急務はただただ眼の前の太陽を追いかけることではなくて、自分等の内部に高く太陽を掲げることだ 島崎藤村」と藤村自筆の碑がある。この文の出典は、大正14年1月28日付けの朝日新聞に掲載の「春を待ちつつ」から抜粋されたものである。 |
| 島崎藤村の「母を葬るの歌」の碑 |
| 永昌寺横の小さな公園の一角に、藤村の詩「母を葬るのうた」(若菜集)が建てられている。 藤村の母、縫子は明治29年(1896)10月25日、東京で居住中の長男秀雄のもとで死去した。当時東北学院の教師だった藤村は遺骨を抱いて埋葬のため帰省。「母を葬るの歌」は明治30年8月発行の処女詩集「若菜集」に収録された。 |
| 正岡子規句碑 |
| 所在地 新茶屋 中山道の路傍 「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな 」子規 正岡子規(1867-1902)は明治期の俳人・歌人。本名は常規、松山の出身。明治26年東京大学を中退後俳句革新を唱え、さらに「歌よみに与ふる書」で万葉を理想とする短歌革新を唱えた。 「かけはしの記」には、この句の前に「馬籠下れば山間の田野照稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐蘇の峡中は寸地の隙あらばここに桑を植え一軒の家あらば必ず蚕を飼うを常とせしかば、今ここに至りて世界を別にするの感あり。」と述べている。 この碑は昭和54年9月、馬籠観光協会によって建立された。 |
| 芭蕉の句碑 |
| 正岡子規の句碑のある場所から300km程下ると路傍に小さな池があり、その池の傍に高さ90センチほどの自然石に「送られつ 送りつ 果は 木曽の穐」の松尾芭蕉の句碑が建っている。 松尾芭蕉が門人の越智越人を連れて嬢捨山の月見と善光寺参りを兼ねて木曽路を旅したのは貞享5年(1688)のことで、この木曽路の旅を「更級紀行」として世に出した。これにはなかの句の「送りつ」が「別ツ」になっている。 この句碑が建立されたのは天保13年(1842)6月で、芭蕉の没後158年になる。当時この地方には芭蕉を祖師とする美濃派(芭門十哲の一人各務支考によって作られた流派)の俳人が多く、この碑も芭蕉を慕うこれらの門人たちによって建てられた。島崎藤村の小説「夜明け前」では、この碑の除幕の当日のことが書かれており、穐の文字が蠅に読めるといっているが、蝿を正解とする説も多い。 |
| 島崎藤村「是より北木曽路」の碑 |
| 中山道の長野県と岐阜県(現在は岐阜県)を接する路傍に島崎藤村の筆で「是より北木曽路 藤村老人」と書かれた碑がある。昭和32年11月17日に藤村記念堂落成10周年記念事業として建てられた。 藤村がこの碑文を書いたのは昭和15年(1940)のことで、このころ藤村は3年越しの病気の保養に努めていたころであり、この年の2月には《巡禮》を、11月には《力餅》など藤村童話叢書を刊行している。 |