
文豪「島崎藤村」のふるさと馬籠宿は、木曽11宿の最南端、美濃との国境にあり、
山の斜面に沿った全長600m余りの「坂に開けた宿場」です。
| 中山道と馬籠宿 |
| 街道の成立 |
| 慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康は、翌年東海道の整備を手始めに順次交通網の整備に着手し、幕府が管轄する道路を定めこれらの道路には多くの宿駅を定めた。 中山道は江戸日本橋を起点とし京都まで132里(約530km)の道程で、ここには69の宿場が設けられていた。本州の中部山岳地帯を縦断し、木曽を通っていたことから別名を「木曽路」とも「木曽街道」とも呼ばれていた。 始めは《中仙道》 と書かれていたが、享保元年(1716)に、「東の海沿いの道を東海道というように、本州の中央を通る道だから《中山道》と書き改めるべきである」として、以後《中山道》と書かれるようになった。しかし《なかせんどう》と読まれた。 中山道は東海道と共に江戸と京都を結ぶ大動脈であった。東海道の126里・53宿に比べて遠回りではあったが、東海道は大井川の川留めで旅の行く手を遮られたり、桑名一宮間の船旅で海難の危険が伴ったのに対し、中山道の旅にはこうした惧れがなかったことから、京都から江戸に向かう姫君たちはほとんど中山道を選んだ。しかし中山道も決して安全な道ばかりではなく、とりわけ馬籠宿と落合宿の間にある十曲峠は険しさで旅人をはばみ、木曽の桟(かけはし)は危険な箇所として恐れられていた。 かけはしや 命をからむ つたかづら 芭蕉 |
| 馬籠宿 |
| 中山道69宿のうち木曾谷には11の宿場が置かれており、馬籠宿は板橋を1番目とすると43番目になる。江戸からの距離は83里(333km)余りとなる。 街道が山の尾根に沿った急斜面を通っており、その両側に石垣を築いては屋敷を造っていることから「坂のある宿場」が特徴となっている。 |
| 一里塚 |
| 幕府が街道を整備するとき、一里(4km)ごとに道の両側に土を盛った塚を築いて旅の行程や駄賃・運賃の目安とした。塚の上には榎や松の木を植えてその目印にした。 現在馬籠宿と落合宿の境にその1基が残っている。中山道では唯一の遺跡である。 |
| 桝 型 |
| 馬籠の南側の入り口に道路を直角に二度折り曲げた所がある。この部分の道路の山手側は切り土になっていて、城郭建築の桝形に摸して石垣を築いてあったことから、ここを「桝形」といった。本来宿場が軍事的な目的をもって作られていたことを示している。 |
| 高札場 |
| 宿や村の庶民に法令を徹底させる手段として高札場が設けられていた。高札場の管理は厳重で、古くなって墨文字が薄くて墨入れを必要とするようなときでも藩の指示を待たねばならなかった。 現在馬籠では当時の場所に忠実に復元してあるが、その内容は正徳元年(1711)の記録のものである。 |
| 本陣・脇本陣 |
| 本陣・脇本陣は共に公儀宿泊休憩のための施設として宿場には必ず設けなければならなかった。本陣は高貴な人の宿泊に備え、広大な邸宅と多くの使用人を常に抱えていなければならず、このためかなりの財力を必要とした。多くは世襲制で一種の家格となっていた。本陣だけでは受け入れ収容に支障があるので脇本陣を置いた。脇本陣は建物や規模などは本陣に準じており本陣同様世襲になっていた。 本陣に休泊できるものは、勅使、院使、宮、門跡、公家、大名、旗本などで一般のものは原則として利用できなかった。本陣・脇本陣ともに貴賓客が使用する専用の部屋が設けられ、ここを「上段の間」といって他の部屋より床が15〜18cm高く作られていた。また専用の風呂場と便所があり、これらの施設は家族といえども使用が禁じられていた。 |
| 大名等の休泊 |
| 中山道の通行はなかなか頻繁で参勤交代の西国大名34家の指定路であり、尾州侯の参府は中山道であった。このほか大阪二条城番・日光例幣使などは片道は必ず中山道を利用した。 皇女、親王家・姫宮の降嫁の節の道筋は殆ど中山道を利用しており、このため中山道は姫街道などともいった。 |
| 旅 籠 |
| 本陣や脇本陣が高貴な人々の宿泊に備えるものであれば、一般の旅人の利用する宿泊施設に旅籠・商人宿があり、さらに下級な施設に木賃宿や馬宿があった。 旅寵は食事を提供してくれる宿屋であり、木賃宿は食事の提供はなく泊めるだけの宿である。馬籠宿には8軒ほどの旅籠があった。 |
| 馬 宿 |
| 馬宿は荷物運搬を業とする駄賃稼ぎの人々を相手とする旅舎で、牛馬と牛馬引きの人を同時に宿泊させた。宿には牛馬を係留する厩があり牛馬には飼料を与えた。宿泊料は木賃程度で旅舎としては粗末な部位に属した。宿場の入り口付近に2軒あったことが記録に残る。 |